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「来るなら来い」と肝をくくった男

私の故郷岩手県が舞台だ
奥州藤原三代100年の栄華を誇ると共にマルコポーロの「東方見聞録」により黄金の国ジバングとして世界に日本を知らしめた ちなみに私の名字「金野」は金色堂建設に使われた私の出身地方の「玉山金山」から付いたもので皇族出身ではありません あたりまえか
秀衡の遺言
命 旦夕(たんせき)に迫った秀衡は 嫡男泰衡(やすひら) 二男忠衡(ただひら) 三男高衡(たかひら) 妾腹の長兄国衡(くにひら)を病床に呼びよせ遺言を伝えました
「九郎殿をあくまでもかくまい通せ 鎌倉の甘言に釣られるな いかなる恫喝にも屈するな 九郎殿に軍事の一切を任せ兄弟力を合わせ富民に励め これが当国を安泰に導く唯一の道だ」
泰衡らは聞き終えると「誓って父上のご遺言に従います」と答え 一礼して席を立った
退席する後姿に目をやっていた秀衡は ふいに「忠衡」を呼び止めじっと見つめていたが「よい 行け」と言って顔をそむけた 目から涙が流れ落ちた 立ちすくむ忠衡に「行け 行け」とくり返し弱々しく手を振り 忠衡はこうべを垂れ無言のまま退出した
はたして その涙はなにを意味していたのだろうか
文治3年(1187)10月29日秀衡は66歳の生涯を閉じました
「義経」は死の知らせを聞くと「時か・・・」とつぶやき 自分の運命が秀衡の死と共に尽きることを知っていたのだ 義経は秀衡のむくろにとりすがり男泣きに泣いた その涙には 共に滅び行く悲運の感情がこめられていたのではないだろうか
義経を迎えた訳とは
義経が頼朝に追われ平泉にたどり着いたのは これよりわずか8ヶ月前の文治3年3月2日 秀衡は敗残の将を暖かく迎え入れた なぜなら鎌倉対策である
 だから一方の頼朝は義経が陸奥に入ったと聞いて仰天した
鬼門の将軍「秀衡」をなぜ頼朝が恐れたのか
木曾義仲が倶利伽羅 (くりから) 峠の戦いで平家に致命的な大打撃を与え平家は都を落ちた はじめ義仲に頼った後白河法皇も義仲の無法ぶりに腹を立て葬ろうと頼朝の上洛を促したが関東と隣接する奥州がどう動くか分らず動けなかったのだ
結局自分は動かず「範頼」「義経」の二人の弟を京に向かわせた まさに秀衡は鬼門の将軍だったのだ
平家が滅んだいま軍事の天才「義経」の利用価値はなく 逆に目の上のたんこぶで在ることは言うまでもない 頼朝は「義経討伐」のため刺客を送ったり 後白河法皇に義経追討の院宣を出させたり 義経探索のため守護・地頭の設置をのませたりと歌舞伎で有名な「勧進帳」の名場面となる…が頼朝の恐ろしさを感じさせる
そのとき頼朝は秀衡に義経討伐の際 かくまうような事があれば「反逆者」とみなすと付け加えている
だが秀衡はその辺の武将とは役者が違う 使者に向かって
「まことにもっともで 仰せに従い さっそく義経を捕えて差し出しましょう ただ なにぶん出羽・陸奥は国が広いので どこに隠れているものやら とんと見当がつきかねます 探し出すのに時間がかかることでしょう」とトボケている
一方の頼朝は「院宣を重んぜず 殊(こと)に恐るる色なし」と言っている
平家が滅んで秀衡も朝廷との交渉などの外交権は鎌倉にゆずり 領土面でも白河以北にひいて確執を避け ゆずれるのはここまでと肝をくくった
そんなところへ降って湧いたのが「義経」だった幸運にも切り札を掌中にした 秀衡は自信と戦勝の予感から満面の笑みだった事だろうと思う
 しかし奥州の豊かな経済力 強力な武士団 義経の武略 地の利の和といった要素を束ねきれる人物の肝心要の存在だった 失せた時いっさいが消滅することを 死の床についた秀衡が皮肉にも己の器量のおおきさをさとった それが死の床で流した涙ではなかったのではないだろうか と河野守宏氏は締めくくっている
いかがでしたでしょうか 結論から なぜ どうして と追っていく楽しさと 「名字」からして私が皇族出身でもなかったのが お分かり頂けましたでしょうか 
 栄華を極め 悲劇の舞台ともなったこの平泉を 貴方も訪ねてみてはいかがでしょうか  

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